1880年(明治13年)、三井物産長崎支店に勤務していた渡辺魁は、会社の切符を偽造して三井銀行から金を盗んだとして、横領の罪で逮捕されました。
終身懲役の有罪判決を受けた渡辺は、長崎監獄で服役していましたが、脱獄をはかり失敗。その他にもたびたび獄則違反をしていたため、三池集治監(福岡県)に移監されてしまいます。そして、三池集治監でも再び脱獄を企て、1881年(明治14年)7月28日、見事に脱獄に成功しました。
裁判官となった渡辺魁
当時は今に比べ監視体制も十分ではなかったため、脱獄自体はそれほど珍しいことではありませんでした。しかし、渡辺が凄いのはその後、裁判官になってしまったことです。
脱獄した渡辺は、父親のところへ逃げ込みます。そして、父親が渡辺に対して改名することを勧めました。
1882年(明治15年)、渡辺は辻村庫太と偽名を名乗り、大分始審裁判所竹田治安裁判所の雇員(戦前の官公庁における職員の身分)として就職することに成功。翌年には、本籍地の東京府本所区の区長に対して虚偽の申請をし「辻村庫太」の戸籍に編入することにも成功してしまいます。そして、同年には雇員から裁判所書記に昇任。もともと頭の良かった渡辺はその後も昇格を続け、1890年(明治23年)にはついに判事に任命されます。
再び逮捕
脱獄囚から裁判官となってしまった渡辺ですが、そんな生活が長く続くわけがありませんでした。渡辺が判事となったときに赴任していたのは長崎。横領事件を起こしたのも長崎。
判事を務めている辻村という人物と脱獄囚の渡辺魁の人相が似ているとの噂が立ってしまいます。また、辻村判事が渡辺魁の父親である渡邊平丁と同居しているという事実も発覚し、1891年(明治24年)2月、出張中の旅館で逮捕。同年4月には、長崎地方裁判所において「官文書偽造行使」の罪で懲役6年の有罪判決を受けました。
しかし、話はここで終わりません。この有罪判決を受けた翌年、大審院検事が非常上告し、これを受けた大審院刑事部は渡辺に対して無罪判決を言い渡しました。理由は、戸籍簿の記入自体は官吏が行ったものであるから「官文書偽造」に当たらないというものでした。そして渡辺は、元々の罪である終身懲役で収監されることもなく無罪放免となってしまいました。
その後の渡辺は看板書きや代書屋などの仕事ををしながらひっそりと暮らし、大正11年(1992年)、長崎の自宅で63年の生涯を終えました。